戦前の沖縄のコールエリアは,九州本土――熊本逓信局――と同じJ5でした.
私設実験局は1局だけ実在していました.
しかし期間が短かったためか,局名録等ではカバーされていません.
戦前,私設実験局は告示されていますから,官報を紐解くに限ります:
呼出符号 | J5CR |
免許人 | 沖縄県立第二中学校長 |
開設 | S10.11.19逓信省告示2988 |
廃止 | S11.3.12逓信省告示448 (1.31付) |
免許内容 | 3550kc A3 10W |
QTH | 島尻郡眞和志村 |
1946年,終戦直後には戦前同様のJ5が使われていたことが判ります(USCQ誌1953年2月p.31から,7行目からW6NFL/J5 (Okinawa)と):
同様に朝鮮半島では,J8が使われていました.
占領下の沖縄ではJ9Aが使われるようになりました.
QSTの1947年1月号には沖縄をJ9としたコールエリアマップが掲載されていますから,1946年中にはJ9に整理されたのでしょう.
一点,ここで気をつけないといけないのは,戦前,J9は台湾・南洋で使われていた点でしょうか.
戦前 | 台湾 例:J9CA 南洋 例:J9PA |
戦後 | 沖縄 例:J9AAA 小笠原 例:W5DIV/J9 |
強いて違いを挙げるとすれば,サフィックスの2文字 vs 三文字ですね.
以下はUS-CQ(CQ Magazine)誌1948年4月号p.74,76のカントリーリストからの引用です.
また,J9まるごとではなく,J9Aに限定して使っていたようです(1948年8月号p.71,p.74).
実際,トップレターがA以外の局を見かけたことはありません.
さて,この時代のエポックメイキングな出来事は,50MHzでのチリとの交信でした.
この記録のおかげで「J9=沖縄」の公式が頭の中に焼き付いているOM方も多いのではないでしょうか?(US-CQ誌1947年12月号p.78):
切り替えの時期が微妙ですが,本土がJ→JAに移行したのと同じ1949年1月1日――1947年アトランティックシティ会議の発効により,日本の国籍識別がJA~JSに狭められた日――でしょう.
そののち,Novice級にはKR6N$$,Technician級にはKR6T$$の三文字サフィックスのコールサインが割り当てるようになっています.
コールブックによりますと,そそれぞれの初出は以下のとおりでした:
・KR6NAA Billy L. Morefield, 51st Support Sqdn, APO 235 (1962秋版)
・KR6TAB Albert C. Edwards, USA Ordnance Gp, APO 48 (1963春版)
1961年6月22日,KR8AB 石橋OMが本免許を受けました.
のちに6月22日は『沖縄アマチュア無線の日』となります.
参考『沖縄のアマチュア無線史』:
http://www17.plala.or.jp/rycom/okihis/40shiryou.htm
日本人のKR8AA~MEは,JR6AA~MEとなりました.
復帰後の新規の局に対してはJR6QUA~が割り当てられました.
いまではJS6を発給中です.
アメリカ人のKR6の局は,軍属に限ってKA6のAMRS(軍用補助局)として存続をはかりました(USCQ 1972年5月号p.5):
AMRSが免許される条件は「General級以上」でしたから(JA-CQ誌1970年5月号AMRS記事),それに満たない資格のハムは閉局に追い込まれたことになります.
なお同記事によりますと,AMRSはバンドエッジ両端の5kHzはQRVが許されなかったとの由.