1983年ころだと思います.
掲載日は記録していません,すみません.
この件,検索しても一切ヒットしませんので,埋没してしまうのを避けるために本コンテンツを作成しました.
掲題の資料がインターネットアベイラブルになっていました:
http://rar.nagano.nii.ac.jp/detail/67220110606170453;jsessionid=28DF3E855045342F317D390F6CCAB063
遺跡のありかは,松本空港の西1kmほどのところです.
関連部分を以下に抜粋します.
以下の説明があります:
線刻画石(図版17)
F・g3区の集石内に発見され、第1・2環状組石の西縁を結ぶ直線に、直角に交わる西方170cmに所在した。
この両組石遺構と線刻画石は、二等辺三角形で結ばれる位置をしめている。
この石は24×32×42cmの、かなり重量感をもつ硬砂岩質河原石であり、水洗いして精査した結果では、丸 みをもつ石の上面に、 16×32cmの範囲に亘り、小刻みに叩きながら線刻を施していた。
長さ6〜13cmを示す曲線状の弧を主体にして、3〜3.5cmの直短線、4×4cmの円形等が組合されて描出さ れる。
線刻の1単位となる刻みの大きさは、0.5×O.6cm、陰刻の深さ約0.3cm平均を示し、楕円状を 呈し、この刻みを密着連続させることによって、縁辺に刻目を残す線を形成させている。
いわゆる引掻線とか、磨り込んだ線とは趣を異にするものである。
刻みに要した用具類等は不明であるが、しっかりと刻み込まれている。
尚、この石の周囲には、30×35〜25×60cm程度の大きな河原石が4個配置され注意される。
線刻画の意味するもの、性格等については、別項で詳述されるので、ここでは省略する。
この石がこの話の核心です.
これが「遺跡全体の中で,どこにあったのか?」ですが,まず集石部の平面実測図は以下です.
概報のpp.64-65を合成しました.
上図の中央付近になります.
とくに引用文の中で示されている「第1・2環状組石の西縁を結ぶ直線に、直角に交わる西方170cm」とは,下図で,おおむね矢印のあたりになります.
上の図の中央付近をズームしたものです.
「この両組石遺構と線刻画石は、二等辺三角形で結ばれる位置をしめている」「この石の周囲には、30×35〜25×60cm程度の大きな河原石が4個配置され注意される」ということですので,やはり“それなりの意味”があったのではないでしょうか?
「別項で詳述」するとされている,「線刻画の意味するもの、性格等」について,この節で触れられています.
おもに,東京都町田市小山町田端で発見された配石遺構との比較が述べられています.
しかしその田端の線刻画石については,「その意味するところは不明であり、今後資料の増加をまち、比較研究する必要があると思う」とされています.
また,こぶし畑の線刻画石については,以下の最後の一文で,「早期からの祭場としての集石遺構の例が、時代の下るとともに墓地化し、本来の祭場の広場に部落の英雄的なものを埋めて、ともに祭るという習俗が生じたのではないだろうか」と推定されています:
以上配石遺構中から発見された刻文石について記したが、その意味すると ころは不明であり、今後資料の増加をまち、比較研究する必要があると思う。(大場磐雄)
このような大場博士教示を参考として考えてみると、本遺跡出土の線刻石は縄文早期と縄文後晩期 の差はあるが、ともに集石(配石)遺構中からの、発見例であるということに共通性がある。
また田端遺跡の場合は配石遺構の中に、20余の墓壙が確認されたということで、祭場と考えられるコプシ 畑遺跡の場合とは用途の上に差異がある。
このように配石(集石)遺構中に墓壙のある例は、前記し た北海道忍路郡三笠山の環状石籬の好例があり、後晩期において各地に多くその例をみる。
只早期のものである当遺跡の場合にはその確認はない。
早期からの祭場としての集石遺構の例が、時代の下るとともに墓地化し、本来の祭場の広場に部落 の英雄的なものを埋めて、ともに祭るという習俗が生じたのではないだろうか。
上図が概報に掲載されています.
これを右に90°回転,かつ縮小して,新聞記事の写真(再掲)と比べてみます.
紛れもなく同じ石です.
前出の写真も併せて再掲します.